Re: Stars

ますだ沼暮らし。

一度きりの『グレート・ネイチャー』を反芻してみた結果

小山慶一郎主演『グレート・ネイチャー』東京公演、完走おめでとうございます。

9月20日夜公演。ありがたくもフォロワーさんに声をかけていただき、観劇することができました。
今回は1度きりの観劇で、内容も難しく、公演途中でも一旦は考えるのを放棄してしまったほどなのですが、のちのち思い返していたら考える作業がおもしろくなってきたので、レポとも考察とも感想とも言えないような、心に浮かんできたことをつらつらと書いていきたいと思います。
1度観ただけなので正直記憶が曖昧です。セリフや解釈の間違いがあると思いますがお許しください。

※以下、ネタバレを含みます。





▼「ここには何もない」
序盤から印象的だったのが「ここには何もない」というセリフです。
小山さん演じる篠崎が教師として赴任したのは「SON(そん)」という場所。篠崎はそこにバスで向かいますが、そのバスも1日に数本しかないような場所でした。「ここには何もない」と繰り返されます。
SONとは「School Of Nature」(自然の学校)の略ですが、篠崎はSONで出会った2人の先生と「SON」という略語に様々な言葉を当てはめていきました。
篠崎「そらジロー オブ ネイチャー!」
「何もない」SONに意味を与えていく3人。それは、何もないところに意味が生まれる、何もないからこそどんな意味にもなる…そんな授業のように思えました。


▼「死ぬことで意味が生まれる」
中盤になり、SONの教師の1人である真田の命が長くないということが突然明かされます。
SONの生徒であり問題児のマックスは、真田の死に際して疑問を投げかけます。「何故死ななければならないのか?」…その問いに初めは答えることができない篠崎でしたが、最終的に1つの答えを導き出したのでした。
篠崎「死ぬことで意味が生まれるから」
私は観劇中、「死ぬことで意味が生まれる」という篠崎の答えと、死へ向かっている真田の「どんどん無意味な存在になっていく」という言葉が矛盾しているように聞こえて、この辺りで考えるのを諦めそうになりましたが…。
真田は死ぬことによって「無意味」になり、どんな意味にでもなれる存在になったのではないでしょうか。私はSONの授業を思い出すのでした。


▼「ここが舞台だって言うのか?」
舞台演劇は舞台の上で行われるものです。舞台の上では、木がなくても花は咲き、天井があっても月が見えるのです。舞台上で意味を与えれば、それが実際にはそこになくても、あるものとして話が進んでいきます。
それは暗黙の了解というもので、演者も観客も疑問を口にしたりはしません。しかし『グレート・ネイチャー』では、あえてそこに切り込んでいました。舞台の端で「これ以上行けないから」と戸惑ったり、「ここが舞台だって言うのか?」と問いかけたり、泳ぐ真似をする篠崎をからかったり…そこが舞台であるということを意識させるような演出がたくさんありました。

舞台に端があるのと同じように、私たちが生きる世界にも端があります。私たちは、自分自身の意識の範囲内でしか生きられないのです。
私たちが生きる世界は舞台。私たちは演者。生きるということは、何もない舞台に意味を作るということなのかもしれません。


▼「散りゆく桜の花びらは遺言」
物語の終盤、舞台の中央に立つ桜の木がたくさんの花びらを散らせていました。
桜は散るからこそ、美しく咲く。月は欠けるからこそ、美しく満ちる。人は死ぬからこそ、美しく生きることができる。

そんな風に感じられる、圧倒的な風景でした。






(生と死。ハレとケ。不自然と自然。物事は表裏一体。死はグレートネイチャーであり、生は柿ピーから育っていくのである)



大阪公演の成功を願って。